七高僧
龍樹菩薩
名前をナーガールジュナ、訳して龍樹という。南インドのヴィダルバに生まれ、若くして哲学・天文・地理・医学などのあらゆる学芸を身につけていたと伝えられる。大乗仏教の大成者で、昔から「八宗の祖師」とたたえられ、大乗の各宗からうやまわれている。
その出家について、次のような話が伝わっています。
若い龍樹は、親友三人と隠身の術を用いて王宮に忍び込み、宮中の美女を次々に誘惑します。ある日、その悪事が露見し三人の友は切り殺されてしまいました。
友の惨死を目の当たりにした龍樹は、快楽がかえって苦を招くことをさとり、出家したといわれております。
独自の教義展開(発揮):仏道に難易の二道あることを示す。
難行道・・・陸の道を徒歩で旅するような困難な道。
いろいろな修行(諸行)を長い間(久)励んでも、うぬぼれの心にとらわれると堕落(堕)する恐れがある道。
『般若経』『法華経』『華厳経』の教え。易行道・・・船に乗って水路を進むような易しい道。
ただ一つの行(信方便易行・仏さまにお任せする一つ)を行うだけで、速やかに目的地に到達し、後退する心配がない道。
『無量寿経』の教え。
著書
『十住毘婆沙論』中の「易行品」、『十二礼』
その出家について、次のような話が伝わっています。
若い龍樹は、親友三人と隠身の術を用いて王宮に忍び込み、宮中の美女を次々に誘惑します。ある日、その悪事が露見し三人の友は切り殺されてしまいました。
友の惨死を目の当たりにした龍樹は、快楽がかえって苦を招くことをさとり、出家したといわれております。
独自の教義展開(発揮):仏道に難易の二道あることを示す。
『般若経』『法華経』『華厳経』の教え。
『無量寿経』の教え。
著書
『十住毘婆沙論』中の「易行品」、『十二礼』
天親菩薩
名前をヴァスバンドゥ、訳して天親、または世親という。北インド、ガンダーラのペシャワールに生まれ、小乗仏教について五百部、大乗仏教について五百部の論を著したので「千部の論主」と称されます。
最初、小乗仏教を学びながら大乗仏教を批判していましたが、後に大乗仏教へと転じて行かれます。
それには次のような話が伝えられています。
兄の無着菩薩は、大乗仏教に帰していました。
弟の天親が大乗を悪くいうのを少なからず心配して、天親菩薩の元へ「無着菩薩が危篤だ」と知らせを送ります。
それを聞いた天親菩薩は急いで兄の元にかけつけます。
無着は天親菩薩に「わしは心の病気じゃ。その原因はお前なのだ。お前は小乗仏教にこだわり過ぎ、大乗仏教の素晴らしさを全く知ろうとしない。それゆえ、お前が将来、大きな苦を受けるだろうと思うと、心が安まらんのじゃ。」と。
これを聞いた天親は、深く心を動かされ、大乗の要義を深く学ぶようになられました。
独自の教義展開(発揮):宣布一心
一心(ふたごころなく)に阿弥陀如来にすべてをお任せするのが、お念仏の道であることを明らかにしてくださった。
著書
『無量寿経優婆提舎願生偈』(通称『浄土論』または『往生論』)
最初、小乗仏教を学びながら大乗仏教を批判していましたが、後に大乗仏教へと転じて行かれます。
それには次のような話が伝えられています。
兄の無着菩薩は、大乗仏教に帰していました。
弟の天親が大乗を悪くいうのを少なからず心配して、天親菩薩の元へ「無着菩薩が危篤だ」と知らせを送ります。
それを聞いた天親菩薩は急いで兄の元にかけつけます。
無着は天親菩薩に「わしは心の病気じゃ。その原因はお前なのだ。お前は小乗仏教にこだわり過ぎ、大乗仏教の素晴らしさを全く知ろうとしない。それゆえ、お前が将来、大きな苦を受けるだろうと思うと、心が安まらんのじゃ。」と。
これを聞いた天親は、深く心を動かされ、大乗の要義を深く学ぶようになられました。
独自の教義展開(発揮):宣布一心
一心(ふたごころなく)に阿弥陀如来にすべてをお任せするのが、お念仏の道であることを明らかにしてくださった。
著書
『無量寿経優婆提舎願生偈』(通称『浄土論』または『往生論』)
曇鸞大師
曇鸞大師は、北魏、承明元年(476)に雁門で誕生されました。
出家後は、四論と仏性の研鑽に従事されます。『大集経』60巻の注釈の途中で病病気になったことで、長寿の法を求めて始めます。そして、道教の大家の陶弘景を訪ねて、長寿の法である仙経十巻を授けられます。
洛陽に立ち寄った大師は、菩提流支三蔵に出会います。
菩提流支三蔵から「少々長生きして何になる。すみやかに生死解脱の真の長生不死の法を求めよ。」と『観無量寿経』を授けられ、仙経十巻を焼き捨て浄土教に帰入されました。
曇鸞大師は当時の皇帝から「鸞菩薩」、「神鸞」と呼ばれ、中国屈指の高僧として非常に尊敬されていました。
67歳で往生されたました。
独自の教義展開(発揮):仏道に自力と他力があることを顕す
自力
だだこれ自力にして他力を持つなし=難行道
他力
仏を信じ、願生すれば、阿弥陀仏の本願力によって往生し、正定聚に入る=易行道
他力とは仏願力すなわち阿弥陀仏の本願力
著書
『無量寿経優婆提舍願生偈註』、『讃阿弥陀仏偈』
出家後は、四論と仏性の研鑽に従事されます。『大集経』60巻の注釈の途中で病病気になったことで、長寿の法を求めて始めます。そして、道教の大家の陶弘景を訪ねて、長寿の法である仙経十巻を授けられます。
洛陽に立ち寄った大師は、菩提流支三蔵に出会います。
菩提流支三蔵から「少々長生きして何になる。すみやかに生死解脱の真の長生不死の法を求めよ。」と『観無量寿経』を授けられ、仙経十巻を焼き捨て浄土教に帰入されました。
曇鸞大師は当時の皇帝から「鸞菩薩」、「神鸞」と呼ばれ、中国屈指の高僧として非常に尊敬されていました。
67歳で往生されたました。
独自の教義展開(発揮):仏道に自力と他力があることを顕す
他力とは仏願力すなわち阿弥陀仏の本願力
著書
『無量寿経優婆提舍願生偈註』、『讃阿弥陀仏偈』
道綽禅師
道綽禅師は、北斉の武成帝の河清(かせい)元年(562)に汶水(ぶんすい)に誕生されました。
14歳で出家し、最初は『涅槃経』の研究に従事されます。
48歳の時、曇鸞大師にゆかりのある玄中寺に立寄り、曇鸞大師の事績を記した碑文を読んで感激し浄土教へ帰入されました。
その後、『観無量寿経』を200回ほど講説。
禅師が70歳前後の頃、善導大師が門下に入ってきます。
84歳で往生されました。
独自の教義展開(発揮):仏道に二つの門があることを示す
聖道門・・・この世界において成仏をめざす道。
浄土門・・・阿弥陀如来のお浄土(極楽)において成仏をめざす道。
聖道門の道は、
釈尊入滅からはるか後の時代になっていること。
深い教えを理解する衆生がないこと。
「わが末法の時のうちに、億々の衆生、行を起し道を修すれども、いまだ一人として得るものあらず」という『大集月蔵経』の文。
という理由と文証から、悟りをひらくことが難しい道であると示される。
浄土門の道は、
末法の時代であり、五濁悪世である今、唯一、仏に到ることのできる道であることを示される。
著書
『安楽集』
14歳で出家し、最初は『涅槃経』の研究に従事されます。
48歳の時、曇鸞大師にゆかりのある玄中寺に立寄り、曇鸞大師の事績を記した碑文を読んで感激し浄土教へ帰入されました。
その後、『観無量寿経』を200回ほど講説。
禅師が70歳前後の頃、善導大師が門下に入ってきます。
84歳で往生されました。
独自の教義展開(発揮):仏道に二つの門があることを示す
釈尊入滅からはるか後の時代になっていること。
深い教えを理解する衆生がないこと。
「わが末法の時のうちに、億々の衆生、行を起し道を修すれども、いまだ一人として得るものあらず」という『大集月蔵経』の文。
という理由と文証から、悟りをひらくことが難しい道であると示される。
浄土門の道は、
末法の時代であり、五濁悪世である今、唯一、仏に到ることのできる道であることを示される。
著書
『安楽集』
善導大師
善導大師は、随の時代の終わりに差しかかった大業9年(613)に誕生されました。
幼少の頃に出家し、三論宗に入り、『維摩経』や『法華経』を学び、中国各地を遍歴して名僧を訪ねます。
29歳のとき、玄中寺の道綽禅師に出遇い、念仏往生のみ教えに出遇います。
その後、終南山に居住され、しばしば光明寺や長安の都で人々を教化され、永隆2年(681)に69歳で往生されたと伝えられております。 善導大師の弟子は、善導大師の遺骨を拾って墳墓を築き、伽藍を建てました。後にこの伽藍を香積寺と称するようになりました。
独自の教義展開(発揮):
著書
『観経疏』、『法事讃』、『観念法門』、『往生礼讃』、『般舟讃』
幼少の頃に出家し、三論宗に入り、『維摩経』や『法華経』を学び、中国各地を遍歴して名僧を訪ねます。
29歳のとき、玄中寺の道綽禅師に出遇い、念仏往生のみ教えに出遇います。
その後、終南山に居住され、しばしば光明寺や長安の都で人々を教化され、永隆2年(681)に69歳で往生されたと伝えられております。 善導大師の弟子は、善導大師の遺骨を拾って墳墓を築き、伽藍を建てました。後にこの伽藍を香積寺と称するようになりました。
独自の教義展開(発揮):
著書
『観経疏』、『法事讃』、『観念法門』、『往生礼讃』、『般舟讃』
源信和尚
源信和尚は、天慶5年(942)、大和国葛城郡当麻に誕生されました。
父は占部正親)、母は清原氏です。
出家に関して次のようなエピソードが示されております。
あるとき、比叡山の僧がやってきて川で口をすすぎ、手を洗っていました。
それを見ていた幼い源信和尚は、汚れた川でなく、こちらに流れている奇麗な水で洗うよう勧められます。
それに対して僧は、「水性もとより浄し、なんぞ清濁をいはんや」と勧めを断わります。
すると源信和尚は「ではなぜ口をすすぎ、手を洗うのか」と反論しました。
僧は源信和尚の聡明さを認め、出家を勧められました。
出家して比叡山に登られた和尚は、慈恵大師良源の下で修学し、天台宗の学僧として名声を博しました。
その後、比叡山の横川の恵心院にこもってひたすら仏道修行に励まれ、76歳で往生されたと伝えられております。
独自の教義展開(発揮):
著書
『往生要集』
出家に関して次のようなエピソードが示されております。
あるとき、比叡山の僧がやってきて川で口をすすぎ、手を洗っていました。
それを見ていた幼い源信和尚は、汚れた川でなく、こちらに流れている奇麗な水で洗うよう勧められます。
それに対して僧は、「水性もとより浄し、なんぞ清濁をいはんや」と勧めを断わります。
すると源信和尚は「ではなぜ口をすすぎ、手を洗うのか」と反論しました。
僧は源信和尚の聡明さを認め、出家を勧められました。
出家して比叡山に登られた和尚は、慈恵大師良源の下で修学し、天台宗の学僧として名声を博しました。
その後、比叡山の横川の恵心院にこもってひたすら仏道修行に励まれ、76歳で往生されたと伝えられております。
独自の教義展開(発揮):
著書
『往生要集』
源空聖人
源空聖人は、長承2年(1133)、美作国久米南条の稲岡の庄(現在の岡山県久米南町北庄)に誕生され、幼名は勢至丸(せいしまる)といいました。父は当時の中国地方の豪族であり、漆間時国、母は同じく久米の豪族である秦氏の出身です。
聖人9歳の春、父の時国は、明石源内定明の不意の夜討ちによって殺害されます。
その時の父の遺言によって仏門に入り、13歳のとき比叡山の登られます。
比叡山においては、天台宗の碩学に次々と教えを受け、18歳のとき、叡空上人のもとで、名前を法然房源空と改められます。
その後、各宗の学問を身につけ、人々から「智慧第一の法然房」と尊敬される比叡山きっての学僧となりました。
34歳から10年間、黒谷の経蔵(報恩蔵)で一切経を繰り返して読み、ついに善導大師の、「一心専念弥陀名号 行住坐臥不問時節久近 念念不捨者是名正定之業 順彼仏願故(一心にもっぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問はず 念々に捨てざるは是を正定の業と名づく 彼の仏の願に順ずるがゆえなり)」という文に出会い、浄土の念仏の道こそ、今の時代と今の人間に相応舌した真実の教えであると知ります。
そして、比叡山を下りて京都・東山大谷(現在の知恩院あたり)に移り住み、新たに浄土宗を名のって念仏を弘められるようになりました。 文治2年(1186)には、京都・大原の勝林院で聖道門浄土門の論議(大原問答)を行い、66歳の時には、関白の九条兼実の懇請によって『選択本願念仏集』を著します。
ところが法然聖人の門下の興隆とともに、聖人の一門を弾圧しようという動きが南都北嶺の旧仏教界よりおこり、 承元(1207)元年、聖人75歳の時、専修念仏停止が宣下されます。
聖人は還俗させられて土佐(実際は讃岐)への流罪に処せられました。同年のうちに流罪は赦免になりますが京都への帰還は許されませんでした。
建暦元年(1211)に赦免があって東山大谷に帰られますが、翌年の1月25日に大谷の禅室にて80歳で往生されました。
独自の教義展開(発揮):
著書
『選択本願念仏集』
聖人9歳の春、父の時国は、明石源内定明の不意の夜討ちによって殺害されます。
その時の父の遺言によって仏門に入り、13歳のとき比叡山の登られます。
比叡山においては、天台宗の碩学に次々と教えを受け、18歳のとき、叡空上人のもとで、名前を法然房源空と改められます。
その後、各宗の学問を身につけ、人々から「智慧第一の法然房」と尊敬される比叡山きっての学僧となりました。
34歳から10年間、黒谷の経蔵(報恩蔵)で一切経を繰り返して読み、ついに善導大師の、「一心専念弥陀名号 行住坐臥不問時節久近 念念不捨者是名正定之業 順彼仏願故(一心にもっぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問はず 念々に捨てざるは是を正定の業と名づく 彼の仏の願に順ずるがゆえなり)」という文に出会い、浄土の念仏の道こそ、今の時代と今の人間に相応舌した真実の教えであると知ります。
そして、比叡山を下りて京都・東山大谷(現在の知恩院あたり)に移り住み、新たに浄土宗を名のって念仏を弘められるようになりました。 文治2年(1186)には、京都・大原の勝林院で聖道門浄土門の論議(大原問答)を行い、66歳の時には、関白の九条兼実の懇請によって『選択本願念仏集』を著します。
ところが法然聖人の門下の興隆とともに、聖人の一門を弾圧しようという動きが南都北嶺の旧仏教界よりおこり、 承元(1207)元年、聖人75歳の時、専修念仏停止が宣下されます。
聖人は還俗させられて土佐(実際は讃岐)への流罪に処せられました。同年のうちに流罪は赦免になりますが京都への帰還は許されませんでした。
建暦元年(1211)に赦免があって東山大谷に帰られますが、翌年の1月25日に大谷の禅室にて80歳で往生されました。
独自の教義展開(発揮):
著書
『選択本願念仏集』