お葬儀での知恵

清めの塩は用いません

お葬儀に参列しますと、受付で渡される「会葬御礼」に清め塩が添えられています。
この清め塩は、「死=ケガレ」という考えから来ているそうです。 そして、参列する人やその家に、災いやタタリが起きないように身体に塩をふって身を清めるんだそうです。

さて、皆さんに考えていただきたいのは、 このブログを読んで下さっている皆様の身内に「死」は必ず訪れます。
縁があって親子、兄弟になった人の死を、「ケガレ」と考えることが出来ますか?
大切なお方を汚れたものとして扱えますか?
大切な人の死であればあるほど、「お世話になりました。ありがとう。」と亡き方の身体に触れたくなるのでは?
手を握りたくなるのでは? 
言葉をかけずにおれないのでは?

誰もが「もう一度声が聞きたい」とお葬儀をお勤めされておられるのですよ。
それなにの公然と「死=ケガレ」として清め塩を使うのはいかがなものでしょう。

浄土真宗では、「死=ケガレ」とは考えません。
亡くなられた方を阿弥陀如来の世界であるお浄土へ生まれて弥陀同体の悟りをひらいた仏様とみます。


お葬儀は、「せっかくの人生を虚しく終わるなよ、仏様の教えに従って必ず仏の世界で会わせてもらいましょう。」と亡き人から願いをかけられていることに気付かせてもらうご縁なのです。

最後にもう一度考えてみましょう。
あなたは、大切な身近な方の死を「死=ケガレ」としてみることは出来ますか?

お通夜、お葬儀

お通夜お葬儀のご縁に参った時、必ず「お通夜、お葬儀では、別れを告げる儀式ではなく、『また会いましょう』と約束させていただく儀式です。」というようなことをお話しさせてもらっています。

広島に中島みどりさんという方がおられました。
平成11年10月5日 享年40歳でお浄土へ生まれられたお方です。
みどりさんには、当時、愛しいお子様・小学二年生のなつみちゃん、幼稚園生のひろき君がいました。
みどりさんは死を前にして子供たちに最後のメッセージを送られています。
ご紹介いたします。      
  夏美も、洋生も、どうか手を合わせる子になってください。
  お仏だんに、お寺に、お参りしてくれるような人になってください。
  そして、あなたたちが精一杯生きて、この世が終わったら、
  母の待つお浄土(阿弥陀さまの国)に生まれてきて下さいね。
  また会える世界があるということは、幸せなことです。
  この世でどんなにつらいことがおこっても、がんばってのりきれるでしょう。
  死んでしまったらおしまいと考えるのは、あまりにもさみしすぎますね。
  死ぬのではなく、生まれてゆく世界があるのです。
  愛する人と会える世界があるのです。
  それがわかると、安心してこの世を生きていけるでしょう。
  夏美、洋生、どうか安心してこの世を渡って下さい。
  母はいつでも、あなたたち二人の心の中に生きつづけています。
  さみしいとき、かなしいときは、
  「なもあみだぶつ」ととなえて下さい。
  お母さんはいつでも守ってあげます。
(『白蓮華のように〜あなたにあえてよかった〜 中島みどり著 本願寺出版社』より抜粋)

お通夜やお葬式がなぜ大切なのか?
上の文を何度も読み返して考えてみてくださいね。
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